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1982年7月27日午前10時

●「あるじの独り言」〜斑尾高原のジャズ・フェスティバル(2003年夏)〜斑尾高原寺瀬
●本物を聴いて欲しい(2003年)〜朝日新聞
●揺られ揺られてスイング人生(1998年)〜朝日新聞
●ジャズ博物館〜斑尾トレイル(2005年夏)〜TK


「あるじの独り言」〜斑尾高原のジャズ・フェスティバル(2003年夏)

斑尾高原寺瀬(てらせ)Joshu


■斑尾ジャズ創設期

斑尾高原がホテルを中心にペンション・ビレッジを展開する新しい客の滞在型リゾートとして 開発され10年を迎えようとしている1980年頃、開発10周年のメモリアルイヴェントの準備が話し始められた。 イヴェ ントの一つに冬はスキー場のゲレンデとなる芝生のスロープを客席にした野外のジャズ・フェスティバルが提案された。

1954年に始まった、アメリカ、ロードアイランド州のリゾート地ニューポートでのジャズ・フェスティバル、 1958年、5回目のフェスティバルのドキュメンタリー映画、「真夏の夜のジャズ」。これを見た13人のペンションの酒好きおや じ(当時は若者・・?)が夢を膨らませ動きはじめたのです。この中にジャズ好きな「あるじ」も居た訳です。これ は10周年を機に再度、斑尾高原をアピールし地域の活性化を図ることだったんで斑尾のペンション・オーナーはじめ関係機関、 関係諸団体等にご支援ご協力、 ご理解し頂いたのは、本当にうれしかったです。こうした事が無かったら現実に成っていなかったと思います。


■ここから斑尾が始まった

何から何まで、素人集団の手造りの中、理想はナンバーワ ン(恐れを知らない素人の強み)。No.1のリゾート「斑尾」、No.1のジャズ・フェス「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」、No.1の ビール「バドワイザー」。 そして、No.1のアーチストを揃え、1982年7月27日午前10時。 スパイロジャイラの「モーニング・ダンス」。ジェイベッケンシュタインのソプラノサックスから音が出たとき、 Budweiser Newport Jazz Festival in 斑尾 が日本のジャズの歴史に加わったのです。スポンサーにビール・メーカーを 選んだのは、 期間中、酒好きおやじがビールをタダで飲み放題を狙ったわけでは決してありません。


■斑尾の魅力

昼のジャズ・ピクニックと夜のジャム・セッショ ン、一日中ジャズだらけを5日間、斑尾高原をジャズ・ヴィレッジにしたのは、プロデュサージョージ・ウェインの アイデアでした。期間中、斑尾高原にアーチストは滞在し、ステージ以外の時間は、 お客さんとテニスをしたりソフトボールをしたり、アーチスト たちも斑尾リゾートをエンジョイしてるんです。それは、今までの日本のジャズフェスティバルには無いものばかりでした。そして、盛り上げてく れたのがディジー・ガレスピー、カーメン・マクレエ、ジェリー・マリガン、マッコイ・タイナー、ロン・カーカー、 フレディ・ハバード トニー・ウィリアムス、スパイロジャイラ、佐藤允彦、日野元彦、井野信義、 ネイティヴ サンと いったメンバー。

標高1000メートルの大自然の中 太陽の下、芝生の上に寝っ転がってビールを片手に、 好きなアーチストのジャズを聴く、パフォーマンスを見る、そして踊る。こんな贅沢なジャズフェスティバルは斑尾だけの ものです。ぜったいそうだよね・・・あるじは自信満々で言い切ります。

1回から10回はバドワイザー、11回から13回はニッポン エクスプレス。ここから3年休み、1998年再開。15回から17回まではシティーバンク・プライベートバンク、18回からはボーダフォンとスポンサーのお世話になり、来年2004年は斑尾ジャズフェス20周年を迎えます。2004年で二十歳(はたち)になる斑尾ジャズ君は、大人の仲間入りをどんなかたちでみせてくれるのか楽しみですよネェ〜。 そして、アメリカ生まれのニューポートジャズフェスティバルは生誕50周年を迎える訳ですネ。


■レストラン・バーJAZZY

斑尾ジャズにづ〜うっと関わって来た「あるじ」はジャズと酒好きが高じて、ペンションの1階を "JAZZY" という斑尾高原では唯一、いつでもジャズが聞こえるレストラン・バー にしてしまいました。懐かしいジャズメンの写真が壁にいっぱい架かってて、いろんなジャンルのジャズが 一日中流れてて、酒のメニューも豊富で手ごろな価格が喜ばれてます。・・・ちょっと宣伝。

ジャズフェス期間中、スタッフ、関係者、もちろんアーチストが顔を見せることもあります。 10回目の来斑のジョン、3回目のエド、背が高いので入口の梁に頭ご注意(当店、あるじサイズの造りになってるんで)。1997年から気になってたし、写真も壁に架かってる ダヴィッドの来店に期待。キャンディー、昨年はパパ来たよ〜・・・。 みんなでワーワー酒飲みたいね〜。プロデューサーのジョージ・ウェインさん、ジョン・フィリップスさん、初めて斑尾に来てお互いの抱負を話し、我が家のホールで「お抹茶」飲んだのもう22年も前のこ とになるんですね。 (写真:ダビット・サンチェス(ts)とあるじ。斑尾JAZZ FES2003;レストラン・バー"JAZZY"にて)

"JAZZY" のあるじ、 ジョッシュ(Joshu)

はなし変わるけど、あるじを呼ぶとき、普通、マスターとかオーナーとかおやじとかおじさぁ〜んとか呼ぶけど、 "JAZZY" のあるじ、ジョッシュ(Joshu)って呼んでくれると 結構うれしいです。 なんで? ジョッシュか・・・それはまたの独り言の時にでも、酒でも飲みながら。(2003年夏)

斑尾高原 寺瀬(てらせ)Joshu・当ページ及びその一部を無断で転 載する事を禁止いたします。

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本物を聴いて欲しい(2003年)

真夏の斑尾高原で、世界のジャズ・アーティストが共演する。 恒例のジャズフェスティバルは今年 (注:2003年)で 19回目を向かえる。きっかけは、寺瀬俊彦さん(56)らペンション経営者の行動力だった。飯山市の市街地から山に囲まれた一本道 を車で 登ること約20分、ペンションやテニスコートが並び始める。斑尾は70年代前半からリゾート地として開発されにぎわった。 しかし、各地にリゾート地が林立し客が減少した。「何か活性策はないか」。寺瀬さんらがひねりだしたのがジャズ・フェスティバルだった。 「どうせなら一流のアーティストを呼びたい」。当時、米国で最大級のジャズ・フェスティバル、ニューポートに目をつけた。 「ぜひ一度来て欲しい」と日本語で手紙を書き、航空券を送ると、半年後、プロデューサーが来日した。「まさか来てくれると 思っていなかったので本当に驚いた」と寺瀬さんは振り返る。

すり鉢型のスキー場は客席に適していてプロデューサーに 気に入られた。82年に記念すべき第一回が開かれた。80年代はアーティストが泊り込み、客と一緒にテニスする姿もみられた。 町中から離れた斑尾ならではの、ゆったりした雰囲気があった。「当時とは時間の流れが変わったのかな。今はあわただしく 1日で帰るアーティストや客が多いが、触れ合いを大切にしたい」と寺瀬さんは話す。

13人でつくった会社は90年代半ばに活動を停止し、現在は東京の会社が企画運営する。だが過去の経緯を知り尽くしているとして 、寺瀬さんは毎年フェスティバルに携わる。ある年、自分のペンションに日本人アーティストが訪ねて来て「小さい頃、父親 に連れられてて来ました」と言われた。「自分たちの客がアーティストとして戻ってきてくれるなんて。本当にやって良かった」 今年(注:2003年)は8月1日〜3日まで。客がアーティストに直接質問できるコーナーもあるし、運がよければ一緒に演奏したり 、楽器を教えてもらったりもできる。「来年は地元の小学生を無料で招待したい。少しでも多くの人に本物を聴いてほしい」。 あれから20年以上たつが、ジャズへの情熱は増すばかりだ。 (朝日新聞:長野東北信:「交差点」2003年6月27日)

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揺られ揺られてスイング人生(1998年)

斑尾高原に四年ぶりにジャズが戻ってきたとき 、会場に寺瀬俊彦さん(50)の姿はなかった。1982年に始まった「ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾」。 地元のペンション経営者らの発案で始まり、寺瀬さんは中心にいた。それから16年、スポンサー探しによる中断を 経て復活した今年は、実質的な主催がホテル側に移っていた。今年(注:1998年)7月31日からの3日間、寺瀬さんは 経営するペンションと薬局の仕事をしながら、スキー場から流れてくるスイング・ジャズを「もどかしく」聴いていた。

寺瀬さんが斑尾にペンションを開いたのは72年。結婚を機に流通会社を辞め、開発が始まった斑尾に越してきた。 ジャズ・フェスは当時の経営者らが開発10周年を記念した企画だった。 スポンサーはアメリカのビール会社バドワイザー。同社は79年に日本への輸入を始め、81年からサントリーを仲介に 本格的な販売拡張をはかっていた。ロック、ジャズ、ペンション、ディスコブームなど欧米のライフ・スタイルがもてはやされた 時代に乗った企業戦略でだった。「あの世代は飛びつくのが早いからね」と、同社が最後にスポンサーとして 参加した91年に、輸入元であるサントリーと宣伝部でフェスにかかわった渡辺秀人さん(41)は言う。 「今の50年代は学生運動にしても経済システムにしても、新しい思想や文化を積極的に採り入れ時代を切り開いていった世代。次世代の 私たちは少し慎重で、先代の「いいとこどり」をしてきたんじゃないかな」テレビなどメディアの発達で、野外イベント の宣伝効果が下がってきたと判断し、バドワイザーもサントリーもフェスティバルから撤退する。運送会社(注:日通)がしばらくついたが、95年にスポンサーが見つからず中止となった。

その年は中止に加え、寺瀬さんにとってもう一つショッキングな出来事があった。妻暁美さん(54)(注:1998年)が12月、 脳内出血で倒れたのだ。暁美さんは薬剤師の資格を持ち、自宅で薬局を開く傍らペンションで食事の世話をこなしてきた。 寺瀬さんが居間で倒れている暁美さんに気ずき一命は取り留めたが、言葉と右半身に障害が残った。これまで考えても みなかった将来の不安が急に目の前をよぎった。「もし妻がいなかったら・・・」暁美さんは徐々に回復、身の回りのことはできる ようになった。寺瀬さんは家事を覚えた。

24歳(注:1998年)の息子さん勇人さんは来春、通信会社へ就職が決まった。小学生のころからフェスで一流のジャズを 聴いた影響で、音響工学に興味を持ち九州芸術工科大に進んだ。自らジャズ・バンドでドラムをたたき、プロを目指したこともある。 寺瀬さんは不況で3割ほど落ち込んだ客を呼び戻そうと、斑尾高原観光協会主催で近くの池をブラックバス釣りに開放した。 昨年は夏場の約3ヵ月半で約120万もの売り上げがあった。「安上がりなレジャーで不況に合うのでしょうか、まだまだです」と言う。 寺瀬さんはジャズ・フェスが最高潮だった80年代後半が忘れられない。今年(注:1998年)は3日間で延べ約1万2千人の観客を集めたが 、当時は3万人を超えていた。「妻の病、フェス中止などいろいろあった。子育てを終え、もうひと花咲かせたい。スイング しなけりゃ意味がないですから
(朝日新聞1998年8月27日)

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ジャズ博物館〜斑尾トレイル(2005年夏)

■ジャズ博物館

ペンション寺瀬に行った。外見は斑尾高原のごく普通のペンション(ログハウス)。しかし足を踏み入れるとそこはジャズ博物館であった。 「レストランバーJAZZY」は、所せましとCD等の音源、ミュージシャンの写真、雑誌、サインボード、 ステレオ機器で埋め尽くされていた。実際に展示されているのは一部でありまだまだ資料等が沢山あるとの事。
ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾の1回目(1982年)からのステージのダイジェスト映像を見る事ができたが、これら初めて見るステージで繰り広げられる演奏はとてもフレッシュ、時代の流行等とは関係ない次元の音楽だった。 比較しロック・ポップスの音楽イベント系の昔の映像はどうしても古臭さを感じてしまう。

ミュージシャン達が夜原付バイクで飯山の町に繰り出し、暗闇の中を怪しい人が徘徊していると住民が警察に通報し寺瀬さんが迎えに行った、バイクで転んで怪我をしたミュージシャンがステージではバリバリ演奏した、等の武勇伝もミュージシャンは残している。斑尾に参加したミュージシャンの中には亡くなった人も沢山いる。さすがに時代の流れを感じてしまうが音楽はとても新鮮、野外のパフォーマンスである事もその理由の一つ。

■斑尾トレイル

斑尾高原は豊富な自然環境に恵まれている。ステージとなるレストラン・チロル(冬季スキー・シーズンのみ営業)から斑尾山の山頂まで トレイル・コースとなっているので我々もチヤレンジした。しかし、山の中腹あたりで雨が降り出しあえなく撤退。雨宿りしたチロルでは斑尾スキー場のスタッフがサマー・キャンプの設営を行っていた。ジャズ・フェスの会場も担当したとの事。会場となるスロープは綺麗に手入れされており、スタッフの皆さんが毎年行っているようだ。 手入れしないと雪がうまく着雪しないのでゲレンデの状態が悪くなってしまうとの事。山を維持する事は大自然を相手にする事。並大抵な事ではない。皆さんの熱意には頭がさがる思いがした。 山頂までのトレイル以外では希望湖トレイル、原生花園トレイルに行き、赤池ブナ林トレイルでは源氏ホタル(?)に遭遇。 豊富な斑尾の自然を体感する事ができた。ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾の昼間のステージはジャズ・ピクニックと称されているが、 こんなところからもネーミングされているのかもしれない。(2005年7月15日TK)

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